1870年、明治新政府は学問に優れた若者を東京に集めて教育を行う制度「貢進生」を創設し、全国から英才たちが大学南校(後に東京大学へと発展)に進学しました。本学の創立者たちのうち、8人が貢進生でした。ほかの創立者たちも幼少のころから郷土で才能を現し、外国語学校などで研鑽を積んできた者で、いずれも英才として新しい国家建設を期待されていました。1873年、東京大学の前身校、(第一大学区)開成学校では、授業が英語に統一されるため、フランス語を学んでいた創設者たちは暫定措置として設けられた諸芸学科に進みます。
その諸芸学科は改組を経て、1877年に創立された東京大学では理学部物理学科と名称を変更。彼らは在学当時から、自分たちが学んだ理学の知識を日本に広く普及しようと話し合っていました。東京大学理学部物理学科は、1878年から1880年の間に20人の卒業生を輩出したところで廃止されました。卒業者には日本で初めての理学士の学位が授与されました。1881年に本学の創立に加わった者は、このうち19人の理学士と中退した2人の21人でした。
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HISTORY
東京理科大学の軌跡



「理学」が限られた人にしか
教授されていなかった明治初期。
財力の背景を持たない20代の青年たちが、
理学の学校を創立しようと志しました。
明治維新の激動の中で
集められた英才たち
東京物理学講習所設立広告を
載せた郵便報知新聞
国の基に報いる
青年学問志の大志
創立者たちは、故郷・国から手厚い支援やエリート教育を受けていることに、並々ならぬ恩義を感じていました。仏語物理学科は廃止されていく運命にありましたが、国家の近代化を進めるために理学は必要な学問であることを固く信じ、自らの報恩の証を理学普及という形で残したいと考え、一致団結。しかし、理学の普及を標榜して物理学校を創立したものの、経営は極めて厳しいものがありました。法文系の学問とは異なり、理学の学校を創立・維持していくことは困難な時代だったのです。東京専門学校(早稲田大学の前身)や同志社英学校(同志社大学の前身)でも理科を専門とした学科の増設や学校の設置がありましたが、永くは続かず、新たに再開されるのはしばらく後になってからになります。1897年に京都帝国大学に理工科大学(理学部と工学部の前身)が設置されるまで、理学を学ぶ学校として存続していたのは、東京大学以外は東京物理学校だけでした。東京物理学校で教育を受けた多くの卒業生は、明治・大正・昭和期の中等学校等の教壇に立ち、理学の普及に大きな役割を果たしていきます。



東京物理学校
移転を重ねながら教育環境の向上に
努めた創成期。
幾多の困難に見舞われながらも、
理学普及の志を
貫き乗り越えていきました。
東京物理学校の開校と
維持同盟の結成
東京物理学校卒業証書 菱田為吉
1881年9月11日、東京理科大学の前身、東京物理学講習所が開校しました。当初、小学校の教室を借りて授業を行いましたが、机も椅子も子ども用で大変不便でした。講習所は良好な教育環境を求めて移転を繰り返しましたが、1882年11月、創立者たちは資金を持ち寄り、神田区今川小路に自前の校舎を新築しました。そして1883年、東京物理学講習所は東京物理学校に改称するとともに、フランス留学から帰国した寺尾壽が初代校長に就任し、新たなスタートを切りました。ところが、翌年に起こった台風により今川小路校舎はあえなく倒壊し、存続の危機が訪れてしまいます。寺尾たちは理学普及の志を挫折させてはならないと、直ちに代替の場所を探して授業を再開しました。1885年、寺尾たちは東京物理学校の永続的な維持と発展のために、「東京物理学校維持同盟」を結成することを決め、一人あたり30円を醵金して強固な財政基盤を確立します。維持同盟には創立者21人のうち16人が参加し、その後の学校経営は、彼らの合議によって運営されていきました。彼らは本学関係者から敬意をこめて「維持員先生」と呼ばれ、永く慕われています。
設備が整い、
経営が安定した小川町校舎時代
(1891年発行)
今川小路校舎の倒壊後、東京物理学校はさらに移転を重ね、1886年に神田区小川町の建物を借用しました。校舎は旧勧工場(日本独特の百貨商品陳列所)で、レンガ造り平屋建ての堂々としたものでしたが、やがて生徒たちはこの校舎に「北極学校」というあだ名を付けました。教師たちもはじめのうちは、天文学を講義科目とする東京物理学校にふさわしい命名であると思っていましたが、本当の意味は「南はあれど北ない(汚い)」という掛け言葉だったのです。決してきれいな舎内ではなかったにしても、小川町校舎には教室の他、物理実験室、化学実験室、教員室等、理学を学ぶ設備が用意されていました。この頃には維持同盟員たちの努力が実り、東京物理学校の経営が安定して、1887年からは学外から講師を招いて授業の一部を受け持たせるようになりました。生徒も徐々に増えていきましたがこの背景には、1888年に東京職工学校(東京工業大学の前身)入学志望者のための準備教育を施す特別科(修業年限一年)を設置したことがありました。1889年、東京物理学校は小川町校舎の持主から建物を購入し、借用時から20年間にわたりこの地で歴史を刻むことになります。


移転と発展
明治から大正、昭和へと時代が移る中で
着実に規模を拡大させていった
東京物理学校。
戦時下もその歩みを止めることはありませんでした。
財団法人化し、
専門学校へと昇格
1906年、東京物理学校は牛込区神楽町二丁目の土地を購入、木造2階建て白亜の校舎を建設して移転し、現在の神楽坂キャンパスが産声を上げました。創立以来、学校を牽引してきた維持同盟員も高齢に達し、中には亡くなる者も出てきました。そこで維持同盟員と東京物理学校同窓会が協議を重ね、東京物理学校は経営を同窓会に引き渡し、財団法人化して維持同盟を解散することを決定します。1915年には財団法人東京物理学校の設立が文部省から認可されました。続いて、1917年に東京物理学校は数学・物理学・化学の教員養成を目的とする専門学校に昇格しました。これに伴い高等師範科の卒業生は中等教員無試験検定を得られることとなり、また、本科生および高等師範科生(共に修業年限3カ年)には徴兵猶予の特典が与えられました。そして1923年、初代校長の寺尾壽の逝去にともない、東京物理学校同窓会は、寺尾の功績を称えるため寄付金を募り、1928年に「寺尾文庫」を本校に付設しました。これが東京理科大学図書館の前身です。1930年には、東京物理学校は創立50周年を迎え、開院宮の臨席の下、記念式典が行われました。
戦時下で多くの卒業生を
輩出した応用理化学部
第1回東京物理学校報国団錬成大会
1934年4月、元東京帝国大学教授で、理化学研究所長を務める大河内正敏が東京物理学校第四代校長に就任します。大河内は従来の物理学、数学、化学の基礎的な理学教育に加えて、応用実践教育を施した技術者を養成するための応用理化学部の設置申請を行い、1935年に認可を受けました。応用理化学部には予想以上の応募があり、校舎の拡張と充実のため、1937年10月に鉄筋コンクリート4階建ての校舎を新築しました。一方、同年7月、日中戦争が勃発し、軍国主義の時代に巻き込まれていきます。東京物理学校では就職率の高い応用理化学部に人気が集まり、多くの卒業生を輩出していきました。1941年4月には「東京物理学校報国団」が結成されるなど、戦時色がますます強まっていきました。アジア・太平洋戦争末期の1945年8月には、空襲のためほとんどの授業が休止されましたが、数学教授の平川仲五郎だけは授業を続けました。平川は、同年12月25日、大河内校長の辞任に伴い東京物理学校第五代校長となり、戦後の教育制度の急激な転換に対して尽力しました。




大学として新たなスタートを切り、
人材育成や科学技術の進歩に貢献し
続けてきた東京理科大学。
そのまなざしは
常に未来に向けられています。
東京物理学校の終焉と
理工系総合大学への発展
1947年に「学校教育法」が成立し、大学の設置は「大学基準」に基づき「大学設置委員会」の答申によって認可されることになりました。教育制度の急速な転換に伴い、東京物理学校を新たに大学として発展させる準備が必要となったのです。1949年2月21日、文部省より東京理科大学の設置が認可され、東京物理学校同窓会もこの前日、理窓会と改め、初代会長に小倉金之助が就任。1951年に東京物理学校はその幕を閉じました。1949年、新制東京理科大学は理学部第一部、理学部第二部にそれぞれ数学科、物理学科、化学科を開設し、初代学長には、元東北帝国大学総長でKS鋼の発明者で名高い本多光太郎が就任しました。1959年以降、本学は産業界の要請に応えるため、理学部第一部に応用化学科、応用物理学科を増設、さらに「よき理学の基礎の上に立つ薬学部」を理念として、1960年に薬学部が設置されました。また、日本の高度成長期における科学技術の進歩・技術革新に呼応するように、1962年に工学部が、1967年には、理学と工学を統合し科学の基礎理論とその応用を身につける理工学部が千葉県野田キャンパスに設置され、本学は理工系総合大学に発展を遂げました。
未来を見据えて進化し
続ける東京理科大学
創立100周年を迎えた1981年には、学際領域の研究課題にも取り組む総合研究所が発足しました。現在では研究推進機構総合研究院に改組され、多くの研究部門と研究センターを擁しています。また、生命科学研究所は総合研究所の一部門からスタートし、1989年に独立。2012年に生命医科学研究所へと改称し、生命・医療に関する基礎的・応用的研究を推進する多様な優れた基礎生物学・医学研究者の陣容を擁する研究所を構築しています。さらに学部の新設も進み、1987年に基礎工学部(2021年に先進工学部に名称変更)、1993年に経営学部を設置。2004年には専門職大学院が誕生し、技術経営教育を行うようになりました。キャンパスの再構築も進み、2013年には葛飾キャンパスが開設され、同年に工学部・基礎工学部(現在の先進工学部)が移転、2025年には薬学部が移転しました。神楽坂キャンパスについても、2016年に経営学部が久喜キャンパスから富士見校舎に移転するなど、教育・研究活動のインフラが整備されています。野田キャンパスでは2026年に、33年ぶりの新設学部となる、創域情報学部が野田キャンパスに誕生し、2023年に名称変更した創域理工学部とともに、領域横断的な教育・研究に取り組んでいます。

名作に登場する東京物理学校
神楽坂界隈には、多くの文学者が住んでいました。夏目漱石もその一人で、小説「坊っちゃん」の主人公は、東京物理学校の卒業生という設定になっています。夏目漱石は、第三代校長中村恭平とも親交があり、また第五高等学校(熊本大学の前身)に赴任した時には、前任者の一人牧井昇郎とも交友がありました。また、物理学校のすぐ裏手には、北原白秋、泉鏡花の自宅がありました。「東京景物詩:及其他」(東雲堂書店 1913)に収められている白秋の詩「物理学校」には、化学式、元素記号を用いながら、当時の物理学や神楽坂界隈の情景が詠まれています。
1906(明治39)年 夏目漱石著
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